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Nirvana - In Utero [Artist M-O]

Nirvanaとは、巨大な「消化不良」です。
音楽史において、人類の文化史において、
さらには聞き手一個人にとって。
ずっと食道あたりに引っかかったまま、溶かされることなく、解明されることなく、巨大な違和感を持って私たちを永遠に悩まし続ける異物です。

90年はじめにNevermindがブレイクしたとき、かなり醒めた視点で眺めていました。英国のシューゲーザーや、レイブなど、オーバーグラウンド化したインディーサウンドが、徐々に大衆化していく過程に興味を抱いていたころに、重苦しい衝動の発散に主眼を置いたグランジは、十数年遅れてきたアメリカのパンクとしてしか映らなかった。

もちろん、70年のパンクとは違い、思いもよらずにスターダムに持ち上げられ、敵という敵が明確ではなく、ムーブメントとしての扱いよりも、Curt Kobainという一個人として矢面に立たされる極端に歪んだ環境にあって、ただ「アメリカ版パンク」と片付けて澄む問題ではないことはわかってはいました。

しかしだからこそ、腫れ物に触れぬよう避けていたところがあった。
あまりに生で、あまりに直接的な音の感触が恐ろしかったのかもしれない。

ただIn Uteroは避けては通れなかった。
明らかに崩壊に向かいつつあったこの巨大な怪物の行く末を見届けることが、当時を生きる人間としての義務のような気がした。

ここには未来はありません。
音楽的にも、表現的にも、ふん詰まりしかない。
皮肉で、自棄で、悲痛にゆがんだサウンドは、グランジというムーブメントも、見えない「体制」という敵も、Kurt自身の中に潜む霞むような希望も、ズタズタに形なくつぶされている。どこからどう手をつけていいのかわからない。
「どうせオレが悪いんだ」
と自爆するAll Apologiesがどれだけセンチメンタルに響いても、何も終わらない。

解決も未来も希望もなくなった時点で、宙ぶらりんにその事実だけを提示しようとする本作の姿勢は、このバンドが取れた唯一の選択です。否定も、肯定も、留まることもできない状況において、その存在の矛盾を増幅して時代に刻み付ける。時代と折り合いをつけようと真正面からしか取り組めなかったこのバンドの悲劇は、取り返しがつかないと同時に、尊い宝でもあるのです。

映画Last Daysは見ていません。
コンプリートとして再発されたUnpluggedも見ていません。

映画が作られる理由はよくわかります。
初期のデモ盤が高額で取引される理由もよくわかります。

みんなこの消化不良を何とかしたいと思っている。
Kurtは死ぬ前に何をしていたのか、何を考えていたのか。
Kurtが好きだった音楽にヒントが隠されているのではないか。
まだシアトルの町をぶらぶらしていたころに、解読コードが転がっているのではないか。

筆者はとっくにその努力は放棄しました。
矛盾は解読されない。
消化不良は、警鐘であると同時に、まぎれもない赤裸々な現実でもある。
私たちを蝕み、私たちを殺していく。
この巨大な違和感が、気持ち悪くなればなるほど、耐え難くなればなるほど、それが唯一わたしたちがNirvanaに近づくことができる方法なのです。

Kurtはひとつだけ、救いの糸を残してくれている。
あまりに静かで不気味なAll Apologies。
そうです。
Kurtを殺したのは、Nirvanaを作り出し、磔にしたのは、わたしたち。
わたしたちの巨大な自我がこの消化不良を作り出してしまった。
「すべては僕の責任なんだ」。


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