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Karl Hyde - Edgeland [Artist G-I]

全体的にやわらかい音とやさしいメロディによる楽曲群だが、それらを貫く作品のテーマは決して軽いものではない。他の種類の音楽(特に大衆性をもったもの)との明快な違いは、ここに漂う独特の静けさだ。

ポップミュージックがもたらす高揚感は、送り手と聞き手との間に発生することがあらかじめ想定されていて、その「場」ともども音楽に内包されている。音楽が流れた瞬間に、送り手のイメージを浮かび上がらせ、その音楽に酔い、感動するたくさんの他の聞き手との間の巨大なつながりの存在を想起させ、それらもろとも含めて幸福な音楽体験を提供する。
「ああ、なんてよい音楽なんだ」
と感動するだけでなく、
「なんてこのアーティストはかっこいいんだ」
「こういう音楽のよい理解者の一人でよかった」
といった付随的な感情もすべてポップミュージックのパッケージの中には、含まれている。

対して、Edgelandは、形としての音やメロディはポップミュージックを倣っていたとしても、聞き手が受け取る印象はむしろ寒々しい。創作の起点になったところでもあるとのことだが、どこかに取り残された印象を受ける(Edgelandとはロンドン郊外のエリアのあたりのことを指しているらしい)。

Edgelandをひとことで表現するなら「周りに誰もいない感じ」だ。
これはEdgelandに限ったことではないが、創造的で優れた芸術的表現は、えてして「周りに誰もいない感じ」を与える。
それは単に創作者が「孤高の人」であるといったことではなく、また、難解さや非日常さが人を寄せ付けない感じを与えているのでもなく、もっと本質的な理由からだ。その表現に向かう表現者の動機と、その表現を求める鑑賞者の動機の根本に、それははじめから存在しているのだ。

廃墟を衰退や退廃の象徴として捉えているわけではなく、また廃材や荒涼とした景色をオブジェ的・テキスチャア的に表現の材料として捉えているわけでもない。もっとシンプルに、普段見落としがちな私たちの生活の一面、気づいていない日常の一面として捉えている。音がやさしいわりに、過度にセンチメンタルになっていないところにそれは現れている。

Karlにとって、ロンドン郊外の何もない、忘れられかけているEdgelandは、「普通に生活している自分」をむしろリアルに浮かび上がらせる背景のような役割を持っているのだろう。

Underworldの電子音が、現代社会の中で生きていくための装備や、生きていく有様を体現するものであるとするならば、Edgelandは、そのよろいの中にいる生身の人間の、「そのままの姿」の音なのだと思う。むき出しの姿を体現するために、電子音の対極にあるもとしてKarlの「声」がフォーカスされ、楽曲はすべてKarlの声を中心に構築されている。音も過度に武装しないよう、ひとつひとつが丁寧に選ばれ、節度を持って奏でられている。

Karlの声を通して伝わってくる、私たちの生身の日常。その周りには誰もいない、という認識が、当たり前のことのように染み込んでくる。この音からは他者との交わりを介した熱狂も、託すことのできるビッグドリームも湧き上がってこない。
ただそこに悲しさや悲壮感はなく、むしろある種の心の安定がある。「周りに誰もいない感じ」は敗北や忌避すべきものではなく、あまたの欲望や理想の果てにある、たどり着くべき到達点なのだろう。

優れた表現がなぜ孤独を伴うのか、なぜ優れた表現者とそれを求める鑑賞者がその点で繋がるのか、究極の逆説的運命だと思うが、誰も繋がることができない、わたしの周りには誰もいない、という認識が唯一、あなたとわたしとの間で「共有」できることだからだ。
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